
英国ウォーリック大学経営大学院ドクタープログラム修了後、2005年神戸大学大学院経営学研究科教授、経営学博士。専攻は人的資源管理、経営組織。
管理職の方々が日常抱えておられる問題点のひとつに、「部下の視野がなかなか拡がらない」という悩みがあるようです。私自身も、よく「どうやって視野を拡げるよう指導すればいいでしょうか」と尋ねられます。
一概に「視野を拡げる」といってもいろいろな意味が含まれますが、ひとまずここでは「物事を捉える基盤となる視点を自分が普段捉えている視点以外に立って考えてみられるようになること」を指すこととしましょう。
つまり、自分以外の他者の立場に立ってロジックを組み立て「他者はなぜこのように考えるのか」という論理を明らかにすることです。
まず素朴に疑いを持つことや事象の骨子を論理的につかむために、事象の構成要素を考え各要素間の関係がどうなっているかを考えることなどが有効です。
ただそもそもこうした「疑い」を持つこと自体が難しいという声も時折聞こえてきます。疑いを持つためには自分が当たり前と信じている枠組みをいったん崩さなくてはならず、それはかなり精神的にハードな作業となるからです。
こうした「当たり前のことを疑う」ため、そして視野を拡げるための実践的なテクニックとして皆さんに紹介したいのは、「中国の古典」を読んでみることです。
企業の経営者の立場にある方々にとって中国の古典といってまず思いつくのは孔子の「論語」あるいは「孫子」です。
例えば、孔子の「近き者説(よろこ)べば、遠き者来たらん」という一節では、自国を喜ばせるような政治を行えば遠い国からも人材が集まり国はますます栄える、すなわち「身近な社員や顧客、株主を喜ばせる経営ができれば会社は発展する」と説いています。
あるいは「戦わずして勝つ」ための情報戦略やリーダーシップのあり方を説いた孫子の兵法を、経営の座右の銘にしておられる経営者の方々も多いようです。
そのほかによく読まれている中国古典は、リーダー学の教科書とも言われる「貞観政要(じょうがんせいよう)」、人間不信の上に立ったリーダーのあり方や人間関係の対処法を説いた「韓非子」あたりでしょうか。
いずれも改めて述べるまでもなく中国古典の名著で、経営者が読むにふさわしい示唆に富んだ作品ばかりです。
ただ、こうしたラインナップにほとんど取り上げられない、忘れ去られた中国古典の名著があると私は信じています。それはずばり「荘子」です。
「荘子」は高校の倫理の授業でも老子に並んで軽く触れられる程度の扱いなので、その名前すらご存じない方々もいらっしゃるのではと思いますが、ここ数年、この荘子に関する解説書がいくつか出版されていて、隠れたブームになっているようです。
その中で私自身がいちばん読みやすいと思うのは、福永光司著『荘子 内篇』(講談社学術文庫/2011年)です。中国語の原文と読み下し文、そして福永氏による日本語の解説・解釈が付されていて分かりやすくおすすめです。
なぜここで敢えてあまり取り上げられることがない「荘子」を紹介したいかというと、それはトップの経営者層ではなく、中間管理職の皆さんやさらにこれから管理職を目指される若手の方々が視野を拡げるのに役立ててもらいたいからです。
荘子は事象や物事を普通とは逆から捉えて、一般に常識と考えられている考え方が唯一の正解ではないということを説く論者です。
徹底したポジティブ・シンキングを貫き、ネガティブ精神をものの見事にプラス思考へと180度転換してくれます。
数ある中国古典の中でも、孔子の論語や孟子・孫子などは至って「まとも」な世界を説いています。
「まとも」な世界とは、世俗的な価値観が権威を持ち常識的な思考が支配する世界です。
勝つためにはどう戦うべきか、部下の信頼を得るためにはどういったリーダーであるべきかといったような「まとも」な問いです。
ビジネス界のトップ経営者に論語や孟子が尊ばれるのは、こうしたまともな世界のあり方・倫理規範などを真正面から説いているためです。
しかし『荘子』はその正反対で、あらゆるまともな価値観と真逆の発想をします。
荘子の訳者・福永氏の言を借りるなら、荘子の手にかかれば孔子の謹厳さはたちまち独りよがりのおっちょこちょいとなり、絶世の美人もたちまちグロテスクなしゃれこうべとなります。
あるいは「当代の聖賢も彼の前では翻弄され、古今の歴史も彼の前では戯画化され、宇宙の真理も彼の前では糞尿化され、翻弄と戯画化と糞尿化の中で人生と宇宙の一切を声高らかに哄笑する」のが荘子であるとも述べられています。
要するに現世的価値観に埋もれてそれを疑おうとしない優等生をせせら笑うひねくれ者の視点から、世界を冷徹に見つめ直そうとするのが荘子なのです。
人間は自分自身の希望を叶えたいという強い欲求を持っています。その希求のために必死に努力をします。例えば学校教育等のまともな世界ではそれを尊いことであると教えられます。
しかし荘子はそうは考えません。
人間の真の自由とは現実の一切を自己の必然として肯定していく心のたくま逞しさにこそある、と述べます。一切の必然を必然としてそのまま肯定し、自己に与えられた一切の者を自己の者として愛していくところにこそ、何物にもとらわれない自由な生活があり得ると荘子は教えるのです。
哲学的で小難しいと感じられる場合には、故・赤塚不二夫氏の名言「これでいいのだ」を思い起こしてもらえればいいでしょう。
すべてなるようにしかならないと割り切ることとでもいうのでしょうか。荘子のいう「一切の肯定」とはそういうことです。自己の命運をあるがまま肯定し、積極的に受け容れることです。
荘子はこうしてあらゆる境遇を天命として随順していく人間を、真の人間という意味で真人(しんじん)と呼びます。
真人は威勢盛んな栄達に身を置いても心驕ることがなく、人生の万事をただあるがままに受け取って思慮分別を用いることがありません。
一切の所与をただ自然としてあるがままに受け取っていきますから、失敗しても後悔しませんし、成功しても得意がりません。
つまりどのような境遇におかれても自己を喪うことがないので、常に冷静で真に強い人間といえるのです。荘子のエッセンスは、この「真人であれ」という点にこそあります。
荘子は管理職や経営者になる前に読むべきと述べました。その理由は、実業の世界で企業を引っ張っていかないといけない立場の方々は、社会の常識的価値観に身を置き厳しく利益を追求し経営していくことが当然に必要で、社会的責任も伴いますので、こうした常識外れを説いた荘子など到底読んでいられないからです。経営者の方々には、やはり論語や孟子、孫子の兵法をおすすめします。
管理職になる前の若手の方々には、荘子を読むと「こういった逆の発想もあるのだ」という気づきを得て、視野を拡げていくきっかけをつかむことができるでしょう。
さらに自信を失いかけている自分自身を鼓舞し、真に強い人間へと脱皮していくコツを掴むことができるはずです。
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