早くなった日の出に連れて、ヒンヤリした朝のひと時も少しずつ狭められている。分厚い雲の向こう側には、灼熱の太陽が待っている。晴れる日も降る日も、山や畑に、海の潮に欠かせない。人にも、季節の移ろいにより微細な気持ちの動きを教えてくれる欠かせない通信だ。
今まで乱読した本の記憶が、何かの折に断片的に思い返されることがある。共感だったり反発だったり。訓えや触発を受けることも少なくない。子供の頃に読んで大きな衝撃を受けて、今も心に残る話がある。フランスの小説家アルフォンス・ドーデの短編集の中の『最後の授業』という話だ。多くの人が国語の教科書で読んだことがあるかも知れない。
■最後の授業
フランス、アルザス地方の学校に通う一人の少年が、ある日なぜか落着かない雰囲気の村を抜けて登校すると、突然教師から「普仏戦争に敗れたため、明日からはフランス語の授業はできないことになりました。ドイツ語(戦勝国プロイセンの言葉)しか使えなくなります。今日はフランス語最後の授業です」と告げられる。教師は「フランス万歳!」と黒板に大きく書いて、授業を終えた。
現実には、フランスのアルザス地方は元からドイツ語圏内だったらしい。が、読者の私も(多分)作中の子供たちも文化や政治の背景など二の次の問題として、敗戦によって母語が失われることの衝撃を受けた。言葉は、それを使う人間の意思の表明・アイデンティティである。日々の暮らしの中で家族や友人と交わす使い慣れた言葉が、自分の意志ではなく第三者によって奪われることは、存在を否定される屈辱に他ならない。当事者ではないが、小説を読むだけで悲しくて悔しくて涙が止まらなかった。当時の私にはおぼろげだったが戦争に敗れるとは、こういうことなのだと感じられた。今思い返しても、日々の仕事として国語の美しさを子供たちに伝えていた教師の気持ちはいかばかりだっただろう、と胸に迫る。
■アイデンティティの喪失
通常、戦争が終わると戦勝国は占領下の敗戦国の言語・通貨を変え、自国の思想に沿った再教育を行い、同化政策を図る。しかし、日本は固有の国民性・文化的土壌などから違う占領施策がとられ、大筋で通貨も言語も変わることなく終戦期を迎えた。ひとえに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たったアメリカ陸軍元帥のダグラス・マッカーサーの厚情によるお陰、という訳ではない。連合国・アメリカ側には、地政的な分析やその後の戦略的な活用など、それなりの政治的思惑があっての判断だったのだ。それでもどうであれ、日本の言語が失われなかったことは、その後の発展からみて大きな幸運だったと思える。
今、混乱と不明の時代、誰にとっても母国語の喪失は他人事ではない。明日はどうなるか。現に大戦終結80年後の今日でも、国際紛争は途絶えず、当事国では人権や言語の略奪が続けられている。どうして自分は無関係な安全地帯にいるといえるだろうか。
■最新の授業
自分の言語が奪われるのは、戦争の勝敗によってのみではない。
日頃からAIに判断を委ねて疑わない便利な暮らしに慣れてしまうと、いつの間にか賢いAIの答を賢い自分が考えた正解だと勘違いするようになるかも知れない。最初は人手不足を補うため、タイパ・コスパの向上のための便利な道具だったはずが、知らない間に主従は逆転して人の思考や判断を一任し、AIのOKなしでは進まなくなるかも知れない。
一方、AIの解答が正しい選択ではない場合には一転、人が自分の中から発した言葉ではないゆえに責任も反省もなく、期待を裏切ったAIのせいにするのかも知れない。
こうして、少しずつ少しずつ、個人の思考や判断・言語化する努力・間違えて出直す勇気は削がれていくのではないか。遅くても拙くても、自分の言語で考え自分の言葉で表明するアイデンティティは疎外されていくのかも知れない。AIは少しも悪くない。AIとの成果の勝負は、初めから勝敗が決まっている。AIには不可能な人の手間暇によってのみ勝機がある。
そんなことは分かっている!自分の人生をAIに委ねるようなことには絶対にならない!と自信をもって言い切れる人は、既にAIの底なし沼にしっかり入り込んでいるのかも知れない。
2026年6月10日 (水) 銀子




























