銀子の一筆

人それぞれの憧れ

湿度が高くなって、雨もよいの日々が続く。
雨の日も嫌いではないが、まるでお風呂場のように蒸す都会の外気には閉口する。
晴れ渡った空、おだやかな波と潮の香り、葉擦れの音を届ける風、常夏のハワイではどんな毎日だろうと思えば、気持ちだけでも少し癒される気がする。

◆日本人の憧れ

第二次大戦が終わって3年、日本は復興に向かって賢明な頃だったはずだ。
今は高級住宅地になってしまったが、当時実家は東京の田園地帯にあって、うちの裏は農家のトマトやきゅうりの畑だった。 近所には囲も遊具もない「原っぱ」があって、夕方まで子供たちの声が響いていた。町に出れば傷痍軍人がアコーディオンやハーモニカで、軍歌や歌謡曲を演奏していた。

まだまだ終戦後の空気が残っていた頃、『憧れのハワイ航路』という歌謡曲が流行った。 幼過ぎた私にはリアルタイムな記憶はないが、その後たびたびカバーされているのを聞いて、時代が知れて面白いと思った。

つらい戦争が終わってホッとして、やっと普通の生活を取り戻せたかどうか。
贅沢に過ごせた一部の人はいただろうが、物も情報も少なく、一般市民が豊かな暮らしを享受するには程遠い頃だっただろう。 はるかな美しい南の島ハワイは、憧れの楽園だったに違いない。今は空路で約9時間の旅だが、海路でははるばる約9日間の船旅だ。 どんなにか憧れの景色だっただろうと察する。いつか実現したい憧れを目標に、社会は進化するのかもしれない。

◆誰かの憧れ

高校のクラスメイトにアメリカのロカビリースター、エルビス・プレスリーに憧れて、暇さえあればツアー先まで国境を越えて応援に行っていた人がいた。
逆に下駄箱に下級生からのファンレターが詰まっている、憧れられる生徒会長もいた。歌劇に夢中な友人も、歌舞伎俳優に熱中する知人もいた。 少し前の韓流ブームのようなものだろうか。みんな、情報通で楽しそうだった。
そうやって、各々が文化の一面をより深く知るきっかけになるのだろう。

残念ながら私には一度も憧れの人がいなかった。
天賦の才としか思えない芸術、明晰な頭脳や卓越したアスリートには驚嘆する。あんな風にできたら、どんなに気持ちがよいだろう。

世の中には賞賛に値する存在がいるのだ、といつも感じ入るのだが。才能や力量に感動しても、感情を注げる個人的な興味には至らなかった。

◆命の恩人

しかし、「憧れ」に対して少し醒めていた私が反省したことがあった。
私は、ある時期ある取引先を頻繁に訪れていた。 その企業に底抜けに明るく友好的な社員がいて、かわいがってもらった。 何回か個人的にランチやお茶に誘ってもらった。親しくなったころ、彼女が心から憧れている、というより崇拝している歌謡歌手の話になった。 一世を風靡した歌手で、日本中知らない人はいなかった。

その社員は若くして不慮の事故で夫を亡くし、子供を抱えて経済や人間関係だけでなく健康や精神面で、相当の苦労をしたらしかった。 「いっそ死にたい」と思ったときに、その歌謡歌手の歌を偶然聴いて思い直した。その後、亡夫の上司が声をかけてくれて、なんとか今の企業に入社できた。 何のつながりもない歌手だが、当時を思い出すのだろう。「命の恩人なの」と彼女は涙ぐみながら言った。

そうか、誰の目にも触れる一人のヒーローまたはヒロインが、知らないところで誰かの生きる力を引き出し、支えることがあるのだ、と知ってちょっと感動した。
以降、私は「憧れの人」のファンを温かい目で見られるようになった。心に響くということは、(一方的であっても)心許せる友人・力強い味方なのかもしれない。
私の「憧れ」とは誰だろう、何だろう。

◆良い所だけに憧れる

知り合いの編集者は中座するときに、世にも美しく「ちょっとお手洗いに」という。あんなに美しく「お手洗い」といえる人を他に知らない。私だけかもしれないが、心から感嘆する。

彼女の「お手洗い」はじめ、内田百閒の偏屈・南方熊楠の集中・平賀源内の好奇心、リルケの高潔・ニーチェの固執・パバロッティの美声......... 感銘や刺激を受ける興味深い人はたくさんいるが、憧れとは違う気がする。
憧れの資質や才能・功績や快挙はあっても、どう考えても、憧れの人に思い当たらない。 敬愛する人のようになりたい、真似をしたいとも思えない。不出来でも無才でも、私は私なのだから。
しかし、人は憧れ、真似ることから成長するともいわれる。 こんなことだから、私は人に感心するばかりで、自分に誇れるところがないのか。

あるとき上司が言った。
「仕事が絡むとそうはいきませんが、それ以外は他人の良い所だけを見ればいいと思いますね。人は長年生きていればいろいろありますからね」(なんて素晴らしい)
そうだ。私の良いところは、他人の良いところを見つけられることだと思おう。良い所だけを素敵だと思って、少し自分の成長の栄養にしよう。

2021年 6月 23日 (水) 銀子

もっと見る

記事一覧へ

関連リンク

無料PDF資料 人材育成、成功のコツ

  • 研修担当者の虎の巻

    はじめて研修担当となる方向け
    「研修の手引き」

    「そもそも研修ってどういうもの」「担当になったら何からやるの」など、研修ご担当者になったらまずは読んでいただきたい内容をまとめてご紹介しています。

    今すぐダウンロード

インソースからのお知らせ
(障がい者福祉のオンラインショップ)

mon champ

インソースでは、障がいのある方々が製造するお菓子やドリンクを取り扱うECサイト「mon champ」を運営しています。そして、ここで得られた売上を、製造元の福祉団体・パートナーへ還元しています。

商品は、皆さまが日頃よりお世話になっている大切な方へ、是非、真心を込めてお贈りいただきたいおいしいものばかりです。この気持ちを、製造者さまからインソース、インソースから皆さま、そして皆さまから大切な方々へと、つないでいただければ幸いです。

各種コラム

人材育成関連

  • 人材育成ノウハウ ins-pedia
  • 人事・労務に関する重要語辞典 人事・労務キーワード集
  • 人気のメルマガをWEBでもお届け Insouce Letter
  • インソースアーカイブス
  • 全力Q&A インソースの事業・サービスについてとことん丁寧にご説明します
  • インソース 時代に挑む
  • 全力ケーススタディ 研修テーマ別の各業界・職種向けケース一覧
  • 新入社員研修を成功させる10のポイント
  • 研修受講体験記 研修見聞録
  • 人事担当者30のお悩み

仕事のスキルアップ

  • 上司が唸る書き方シリーズ ビジネス文書作成のポイントと文例集
  • はたらコラム はたらく人への面白記事まとめました
  • クレーム対応の勘所
  • 人事のお役立ちニュース

銀子シリーズ

  • 七十代社員の人生録 銀子の一筆
  • シルバー就業日記 銀子とマチ子
  • 人気研修で川柳 銀子の一句

開催中の無料セミナー

  • WEBins
  • モンシャン