銀子の一筆

災難は空飛ぶスリッパのように

天高く馬肥ゆる候、心身共に爽やかな季節になった。しかし世の中には予想外がつきもの。空模様にも人模様にも注意して、平和に暮らしたい。

約30年前、知人のデザイナーが老舗出版社の仕事を紹介してくれた。「ちょっと変わってる社長だから気をつけて」の注意を添えて。
(気難しい人なのかな?)
会ってみると想像とは違って、華やかでオシャレで感じの良い女性社長だった。「あ~ら、引き受けてくださるの?よかった」と言って喜んでくれた。社長は経営専門らしく、担当者との仕事は順調に進んだ。

何回目かの打合せは、いつものミーティングルームではなく、執務スペースの担当デスクで、とのことだった。入ってすぐに、社長が甲高い声で社員に何かを言った。と思ったら、履いていたスリッパ(オシャレな室内履き)を脱いで社員に向かって投げつけた。え~っ!

次いで「バカヤロー!だから、お前はダメなんだよ!」と叫んだ。いつものことなのか、社内はシーンとして皆見ないふりで仕事を続けていた。投げつけられた社員は一礼して席に戻り、室内は静かになった。私は入口の衝立の陰から、動悸・血圧が静まるまで出られなかった。

私の頭の中には、危険を知らせる小さなランプがあって、「なんかおかしい」「これは危ないぞ」「ここにいてはいけない」「すぐに逃げろ」など、時に応じて点滅している。この時も緊急注意信号が出ていた。

何とか無事に仕事は終わったが、しばらくすると社長から電話があった。すぐに頭の中のランプが灯った。急ぎの別仕事をやってくれないか、とのことだった。
この時、私は(幸運なことに)別の仕事が入っていて、受けられる状態ではなかった。「そこを何とか調整できないかしら」「外注いないの?」などと交渉が続いた。

「無理して受けて、かえってご迷惑をかけるといけないので」と断り続けると、「あなたには良くしたつもりよ。今後のことも考えないなんて、馬鹿じゃないの!」と言って一方的に電話は切れた。嫌な気分だったが、惜しくなかった。
1~2時間後に再度電話があった。再度ランプも点灯。驚いていると「条件があるなら言ってみて」とのこと。断り続けると「あなた何様?もう頼まない。バカヤロー!」と叫んで、再度一方的に電話は切れた。再度、嫌な気分だったが、残念じゃなかった。

むしろ何かがあってから、こちらから仕事を降りるようなことにならないでよかった。仕事仲間を紹介しないでよかった。

私には仕事上の実害がなかったとはいえ、平安を乱されたことも一つの災難だっただろうか。今なら炎上必至の社長であり、私には大きな衝撃体験だった。

ビジネス上だけではない、生活のあらゆる場面で人間の難しさに直面する。

駅のホームで電車を待っていたら、美しいお嬢さんから「何見てんだよ!バーカ」と言われたことがある。若者が投げ出した足につまづいたら「オラ~!文句あんのか」と凄まれたことがある。路上ですれ違っただけのおばあさんに「死ね!」と怒鳴られたことがある。

人を幸せにするのは難しいが、不幸にするのは簡単。外を歩けば、脳内ランプは点きっぱなしだ。

が、捨てる神あれば拾う神あり。席を譲られたり花をもらったり、おいしい料理を発見したり福引に当たったり、いつも変わらぬ楽しい友達がいたり、70歳を超して健康診断で問題がなかったり。幸せにもそれなりに出会う。

何より、書類選考段階で落とされ続けていた私が、今こうして好きな仕事を続けていられることの幸運。

2019年 10月 16日 (水) 銀子

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