駅や町では旅行客が引きずる荷物が行き交い、住宅地にも救急車やパトカーのサイレン音が届く。何かと賑やかな夏も盛り、海岸では休みを謳歌する若者や子供たちの声が響く。が、夏こそ曙、ようよう明けかかる静かな風や波の音に耳を傾けたい、と思うのは私だけか。
自分が楽しい喧噪の仲間だった時には気が付かないが、離れてみると周囲の迷惑がよく分かる。悪いことはしていなくても、若者たちの笑い声に少々気分を害する人はいる。また、自分にとっては初めての窮地でも、よくある事例として見慣れた人には大事に受け取れないこともある。それが他人事の冷たさとも、冷静な頼りがいとも感じられるのかもしれない。
■それどころじゃない
ずいぶん昔の事だが、以前から続いていた腰痛を放置していて、突然歩けなくなるほどの激しい痛みに襲われた。近くの総合病院にやっとの思いで行って、痛みをこらえて救急外来のベンチで診察を待っていた。並びのベンチには、同じくどこかの痛みに耐えている先客の高校生らしき男子がいた。時々、看護師が忙し気に足早に通ったが、痛いけれど死に直結しないことが分かっていたので、とても「まだですか」とは聞けなかった。が、痛みに耐えかねたのか高校生は師長の帽子を点けた看護師を呼び止め「おばさん。まだ?」と言った(事実、彼から見ればおばさん世代だったのだが)。すると、師長は彼に向きなおって「おばさん?何よ、あんた!おばさんって!次だから待ってなさい」と言って診察室に戻って行った。高校生は小さな声で「すいません」と言って自分の痛みに戻って行った。その後、彼はどうなったのだろう。結局、私は入院することになったのだが、整形外科の師長は、少し口は悪いが気さくで陽気な優しい人だった。
■初見同士
一昔前までは、特に洋服店に入ると待ち構えていた店員がすぐに近づき、矢継ぎ早に質問をして購入をすすめてきた。そうした接客を苦手に思う人は多かった。私もその一人だったが、「見たいだけですが、よろしいですか」と聞いてから入った。それでも、うるさく付きまとわれることが少なくなかった。客は買うものが決まっている人ばかりではない。新しい素材やデザインや価格など、さまざま目にすることを体験している。サイズ・色違いなど質問があればこちらから聞く。気に入った服だけでなく、店の雰囲気や店員の応対などから、購入するかも知れない、という我儘な体験を楽しんでいる。
近年はCSがやかましく教育されているせいか、ありがた迷惑なサービス精神の押しつけは少なくなった気がする。あるいは、人手不足も大きいのだろう。時には店員を探さなくてはならないことも増えた。どんな職種にとっても、初見の客への過不足のない接客は難しい。1回の接遇だけで、長い商関係が始まることもあるし再度の来店が叶わないこともある。
■口を開く底なし沼
ビジネスパーソンの多くは、接客の目的・頻度・内容・関係に関わらず、きちんとした接遇の基礎、またはコミュニケーション関連の様々なスキルを学んでいる。だが、それでも相手次第で基本は簡単に覆される。相手は外からは計り知れない事情や個性などの背景をもつ人間だからだ。
対するこちら側も、相手の圧力に気圧されて萎縮する、丁寧過ぎる説明で却って分かりにくくすることがある。そうなると一層堅くなり会話も表情も不自然になる。一方、接遇に慣れてしまって新鮮な笑顔や話ができなくなり、モチベーションが下がる人もいる。クレームがあって怒っている相手には、感情の波が落ち着くまで当方が平静を保たなければならない。いずれもストレスの底なし沼に踏み込むような思いだ。
教科書を思い出しても回復しない時は、いっそ全部忘れて単純に、大切な人またその家族だったらどう対応するか、またはビジネスの神様が自分をテストしているのかも知れない、と思い込むのもいいと思う。模範の型を取り繕い自分を追い詰めて病み沈むよりは、正直な笑顔で現状に困っている未熟な自分を明らかにした方がいいこともある。人もタイミングも吉凶も、何事もご縁なのだから。
2025年7月18日 (金) 銀子





























