8月の別称「葉月」と聞けば、ゆさゆさと緑濃く茂る木々を想像するが、実は「葉落ち月」からともいわれている。秋盛りの紅葉・冬の落葉ではなく、おもに夏の強い日差しや病気・害虫などに傷んで、変色・変形した病葉(わくらば)が散る晩夏の物悲しい趣を表している。
病むのに良い時季がある訳ではないが、元気であっても凌ぎにくい季節は、なおのこと病気やケガを避けたい。いつでも困る火事や天災も、待っている訳ではないが起きるなら少しでも被害の少ないタイミングであってほしい、と思ってしまう。家庭内に病人や幼子がいる人は、時季やタイミングに関わらずいつも万が一のことを頭のどこかにおいて、用心しつつ暮らしているだろう。昔、乳児のいる友人がミルクを溶くための湯を、朝夕必ず携帯魔法瓶に入れ替えていたのを思い出す。
■判断する眼
かつて視覚障害者のための「読み書き情報支援」を学んだことがある。分かりづらい公的文書または個人情報に関わる私的文書の代読や要約・必要な情報の記述代筆、あるいは勉強や買物注文の支援などが対象になる。先天性の視覚障害者と、病気や事故による中途視覚障害者の違いもある。現在、視覚障害者の90%以上が中途視覚障害者と言われている。誰にとっても無縁の話ではない。多くの場合、点字教育を受けていない中途視覚障害者の方が絶望感・孤立感は大きいが、見えていた時の記憶があるため色や形状の話は通じやすい。が一方で音や匂い・空気の動きなど、状況に対する注意力は先天性の視覚障害者にはかなわない。個人情報の守秘義務はもちろん、時計の文字盤を想定して方向や方角を示す・急に体に触れずに名乗って承諾を受けてから手引きする・強い香水や激しい雑音を避ける・甲高い声を出さないなど基本的なルールはあるが、思うより支援は難しい。相手は個性も知性も感性も異なる人間だから、価値観・感受性に立ち入り過ぎてはいけない。視覚を失うなんてどんなにか不自由でしょうという、奉仕精神も度が過ぎれば、人格と意思をもつ個人に対して哀れみになって、却って失礼になる。研ぎ澄まされた鋭い感覚は、当方の安っぽい優しさの演技などすぐに見抜いて評価する。
私が苦戦したのは、司法試験の受験勉強の支援だった。一文が長くて難解な法律書を読むのに、どこで区切ればいいのか、メリハリはどこにつけるのか、相手の障害者に教えてもらいながら進めた。他にも普段は流し読んでしまう説明書、心情を吐露している個人通信など、言葉の意味を誤って伝えないように留意した。身に付いているとは言い難いが、生きている人間の言葉について改めて良い勉強になった。
障害者支援に限ったことではない。私たちが生活の多くの場面で、いかに他者に対して無神経な言葉や不明確な説明をしているか、悪意のない乱暴な言葉で傷つけているか、深く反省した。といっても、日常に戻ればいつも通りの健常者特有の雑な生活に戻るのだが。
■個別のSWOT
人の病気・障害・傷は目に見えるとは限らない。誰もが何らかの弱所を抱えて生きている。
見えていない部分にこそ本質があるのかも知れない。学校で・家庭で・仕事で出会うすべての人が内に個別のSWOTを秘めているのだ。と思って接していれば、少しはハラスメントもギクシャクも生まれにくくなると思える。本来、障害者にだからではなく・お客様にだからではなく、誰に対しても程よい距離感と敬意が必要だと思う。それが本来のホスピタリティというものではないか、とも。
「助けてあげる・教えてあげる・分かってあげる」ではなく「正しく伝える・勉強させてもらう・相互理解に努めたい」の関係でなければ、信頼関係は生まれない。表面的に整った形ばかりのスキルではなく基本の礼節に立たなければ、ビジネスの信頼もうまく築けず誠意も通じないと思う。が、それがナカナカ難しいのよ、と今日はちょっと教えてあげてみた。
2025年8月6日 (水) 銀子





























