仲秋とは思えぬ日々、夏休みを終えた子供たちにも容赦ない残暑が降りかかる。外に出るのも危険なほどの高温の夏を、楽しく過ごせただろうか。晩夏の寂しさを誘う山の凉風・海の荒波、うるさいほどの蝉の鳴き声やトウモロコシの葉擦れの音を遠く懐かしく思い出す。
「むかし、ありしことか無かりしことかは知らねども、あったとして聞かねばならぬぞよ...」
一般的には「昔々、あるところに...」で始まる昔話だが、鹿児島地方では言い含める言葉があってから昔語りを始めたようだ。聞く側に対して、別次元の異界に踏み込む心の準備を促す文言に感心する。定かな話ではないことを承知のうえでも、なお心に響く話を聴きたい好奇心を呼び起こす優れた口上だと思う。聞きようによっては「~あったとさ」と同様に、または大阪の人がまことしやかな話をした後に「知らんけど」と言い足して、話の出所を曖昧にするのと似ているかも知れないが。
■虚と実
昔話の多くは表面的には道徳啓蒙的な例え話で、努力や正直が報われる。が原典は意外にも、過剰な仕返し・いわれのない制裁など残酷で恐ろしい結末も多い。勧善懲悪の筋書きも実は勤倹力行を奨励し、侵略差別などを正当化するプロパガンダの意味があるとする説もある。
それでも、子供たちには社会における善悪の基本ルールは伝わるし、大人にとっても多くの教訓を含んでいるとも思える。話の両面のどちらかに偏らず、どちらも同等に理解したい。
多くの先入観・既成概念や防衛心などから、柔軟性を欠いている人間の耳は他人が語ることを無心に聞けない。かと思えば、名声や権威あるいは情をもつ相手に関しては、迷わず賛同または信頼を寄せがちだ。傾聴の重要性は理解していても、本当かどうかは分からない誰かの話を無心にしっかり聴いて正しい判断をしているだろうか。私には自信がない。
■光と影
人間のあやしい理解力は、もしかしたら社会人であることによって、かろうじて平衡を保てているのではないかと思う時がある。ビジネス脳とプライベート脳を切り替え、外界と内面の緩急でバランスをとっているのかも知れない。バランスをとろうとすると、どうしても経験や常識による理解や判断に頼ることになり、正論もしくは無難な考え方になりがちだ。
一方、積極的に社会に参加していない、または参加しにくい状況にある障がい者・疾病による療養者など非就業者の方が、一般社会人よりもずっと真摯に社会を観て、的を射た考えをもっていることに感心することもある。社会におけるランクや他者との比較より、表裏のない個人の芯に集中しているからかも知れない。
■西と東
大まかに言って、西洋文化と東洋文化では、その背景になる宗教の世界観や倫理観が異なり、正しく理解しようとすると、いったん自身が信じるところから離れて別の価値観に立って観なければならない。そこを急ぐと、学問科学でも政治経済でもベースとなる本質的な発想の違いが理解できず、ズレた考察になってしまう。しかし信仰がベースにあるからと言って、人が必ずしも訓えに沿って動くかと言えばそうではなく、神を大義としながら神をも恐れぬ行為に及ぶこともある。その点、日本文化の神仏の扱いや生活歳時は土着信仰がベースになっているのか、よく言えば柔軟で融通が利き、悪く言えば節操がないと言われる。一見、取り留めないルーズさがベースにあるように見えるが、多分それゆえに古来の価値観に縛られずに多方面への試行が可能になるとも思える。
目と耳を無心に開き、善悪・清濁・表裏のどちらの面にも偏らず、その背景・現状・成り行きを理解した上で自らの進むべき道を判断できれば、国も組織も個人も「めでたしめでたし」かも知れない。少なくとも、そうは上手く行かないことを学べれば、新たな成長の基になる。人間は思うより賢くないけれど、思うよりは愚かではない。とっぺんぱらりのぷう。
2025年9月5日 (金) 銀子





























