壁を乗り越える

上手に手放す

創立20周年企画「壁を乗り越えた経験大賞」大賞(50代)

 60歳定年あるいは55歳役職定年を見据えた50代に課せられた主たる使命の1つに、若い世代の中から適材を見出し、知恵や経験を惜しみなく開示して、自分の持てる権限や責任を円満委譲することがあるだろう。

 私の場合は役職定年がなかったため、後任候補者への本格的な引継ぎ教育は55歳開始とした。幸い、目星をつけていた中堅、若手は期待以上の能力があり、組織幹部のバックアップもあって2年ほどはほぼ描いた青写真通りの仕事ができた。ところが、3年目頃から思いもしなかった障壁にぶつかった。というより、壁は最初から私の内部に存在していたのに、自分では気がつくことができなかったのだろう。後任者たちが育ち、少しずつ責任と権限とを委譲していった結果、自分自身の働くモチベーションを著しく損なってしまったのだ。

 あれほどひっきりなしだった電話やメールはめっきり減り、招集する会議や押印する書類も少なくなる。トラブル時の緊急呼び出しやその解決まで譲ってしまうと、どうしたことかひどく不安になり、足元が崩れるような感覚に襲われた。自分が無力で、誰からも必要とされていないという思いに付きまとわれ、手塩にかけて育成してきた若手たちが空っぽに見えてしまう。加えて、自信があった健康にも差しさわりが出た。ストレスから血圧がみるみるうちに上昇し、いつ倒れてもおかしくない水準にまで達してしまったのだ。

 「もう充分だ、体を労わって退職すべきだ」と夫が言う。今日こそ辞表を出してくれ、仕事は代わりがきくが家庭に代役はいないと懇願されれば、確かにそうだと思える。一方で、職場を去るのは今ではない、チームはまだ不完全なのだからここは踏ん張りどころだとも考えて、行き詰まってしまった。

 健康不安については病院を受診し、投薬によりかなり改善が見られた。一方で、モチベーションの低下や漠然とした不安感などについては、人に助けてもらえる種類のものではないと判断した。自分が変わるしかない。

 まずは漫然と感じているものに名前を付けるところから始めた。直近の過去3年間、満足している仕事について書き出し、感想や言ったこと、言われたことなども思いつく限り書きだして、それぞれに見出しをつける。反対に、自分が今抱えている不安や不満も片端から書きだす。

 これが想像より難しい。漠然とした不安はあっても、それは言葉にすると何か、解きほぐすのは容易ではないのだ。あてずっぽうで文字にしても、これだ、とはなかなか思えない。それでも書く。この作業は相当な時間と根気を要する。何より自分自身に正直で、気取りやてらい、自尊心等はすべて捨てる覚悟がいる。認めたくない焦りや妬み嫉みに少なからず行き当たるからだ。

 何日もかけて書くうちに、少しずつわかってくる。案外自分は多くのことをしてきたし、ささやかながら人の助けになったかもしれないな、と。逆に、はっと胸を突かれることもある。私は若さを羨んでいた、自分の衰えから目を背けていた、そしてたくさんの人に赦され、助けてもらったと。

 書き上げたら、口に出す。助けてもらった人たちに感謝を伝え、ありがとう、あの時は本当に嬉しかったと言う。あなたの成長が誇らしいと言う。何かが変わるわけではない。ないが、自分の中では重荷が減り、気持ちが和らぐ。

 どうしても許せない人、相容れなかった事柄については譲歩する必要はない。心の中で別れを告げる。事実、すぐに別れるのだから。自分がとことん正しいと言い切れるなら自分を尊重し、妥協せず、喧嘩別れではなく心の中で縁を切る。

 執着を、怒りを、焦燥や不安を上手に手放す。同時に、恩義ある人たちにはありがとうと惜しみなく言う。壁は乗り越えられないかもしれないが、現役を退くことへの怖れは小さくなる。私たち世代には時間がたくさん残っているわけではないのだから、手放すことを躊躇してはならないはずだ。

「壁を乗り越えた経験大賞(50代部門)」大賞
氏名 成松 聡美 様

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